小野 實 
1941年生まれ。
大手化学メーカーを60歳定年退職後、中小企業4社で新規製品開発のお手伝いを10年間行ってきた。中小企業ではアイディアが出ても特許事務所を使って特許出願する金銭的余裕はなく、私が特許を書き、スタートしたばかりのインターネット出願を行っているうちに、私は特許出願のベテランになっていました。
70歳頃から自分の為の特許出願を行うようになり、自分の発明をブログで発信するようになりました。
    <発明ブログはここからご覧になれます>
特許出願を行っている内に、様々な文房具の問題点が見つかり、対策のアイディアが次々と浮かんできました。私の特許出願が文房具中心であるのはそのためです。またゴルフが趣味とはいえ、さっぱり上達せず、なんでこんなに上達しないのか、なんで自分にあった練習道具はないのか、それなら自分で作ろうという発想で、ゴルフ練習用品も発明しました。

スポンジボールをアイアンで打ち、打痕を確認後すぐ消えて、繰り返し使える打痕チェックシートを開発しました。CS放送のゴルフチャンネル、「ギア猿」のゴルフ用品紹介番組に出演し、1位を獲得しました。「発明ブログ」にゲストの博多華丸氏などと一緒の写真を載せておきました。

 東京品川で生まれる

1941年(昭和16年)7月、東京品川で生まれる。父親は私が生まれる前に招集され、戦地に向かう。空襲を避けるため、静岡県沼津近郊に疎開。途中、トラックが米軍戦闘機の機銃掃射を受け、母親は私を抱きかかえて荷台から飛び降りたという話を母から何度か聞かされているうちに私には覚えている筈の無いシーンのイメージが出来上がり、学生時代、酔うと友人にさもリアルに話していた。

 終戦となり、毎晩復員者情報をNHKラジオにかじりついて聞いていた母親が、1年後に父の名前を聞き、涙していたのを覚えている。数日して、疎開先に見知らぬ男が現れた。父である。私にとっては見知らぬ人間であり、懐かなかった。ある日、父は沼津で木の蒸気機関車を買ってきてくれ、その日から、「おとーちゃん」と呼ぶことにした。黒い木製の機関車は今でも覚えている。

距離計を手作り 

小学校5年の時、父がキャノンのカメラを買ってくれた。当時のピント合わせはカメラの前にピント合わせ用の窓が左右に2つ有り、1つの窓の中の鏡がレンズを回すと回転しカメラの後ろにある覗き窓の中に2つの目的物体が重なった所が、ピントが合った状態と認識し、シャッターを押すようになっていた。更に、その時の距離がレンズ筒に目盛りで分かるようになっていた。

 この構造に感心した私は、夏休みの宿題工作に距離計を作ることにした。構造は至って簡単。洗濯板くらいの大きさの板の一方の端に銃眼のように2本の釘を打ち(固定)、もう一方の端に交点で回転するようにした9時を示した時計の針状に切り抜いた板を載せ、交点で回転する長針の両端に銃眼状に2本釘を打ち、左側の固定銃眼で目的物に狙いを付け、移動して右側の回転銃眼で同じ目的物に狙いを付け、短針が指した所に実測距離を書き込むことで洗濯板くらいの大きさの距離計を作った。

但し、当時の我が家の庭は10メートルしかなかったので、実測は10mで、洗濯板のような板にあとは適当に100mまで書き込んで宿題として提出した。秋の運動会で50メートル徒競走があり、担任の教師が、スタートからゴールを決めるのに、私の距離計を使っていた。本当の事は言えなかったが、運動会は無事終了。(洗濯板)距離計は脚立に載せて、左側銃眼で目的物を固定したら、右に移動して右側回転銃眼で目的物に狙いを定めると距離が決まる。ゴルフで使う最近の距離計はポケットに入るが、私の距離計は洗濯板とほぼ同じサイズであった。

 これには、更に後日談があり、職場の飲み会で、昔のこの話をしたら、同僚が自分の子供に距離計を夏休みの工作宿題に作らせ、表彰されたという事も耳にした。

バイオリンとの出会い

 

小学4年生のとき、沼津のいとこの家に行ったとき、高校生であったセーラー服姿の玲子姉さんがバイオリンを弾いてくれた。
音階を教わると、その場で正確に弾けた。

美人と評判の高かった玲子姉さんから「ミーボーは天才じゃん!」 などと言われ 初めてバイオリンに興味を持った。その年の秋の学芸会で、1年上のクラスに目立つ女の子がいたが、何と、学芸会でバイオリン演奏を披露したのだ。その晩、私は親にどうしてもバイオリンを習いたいと言い、結局買ってもらった。バイオリンは身体の大きさに合わせたサイズが、4/43/42/4とあるが、親は買い換えなんか出来ないから、4/4の大人用を買ってくれ、お陰でしばらく持ちにくかったり、構えにくかったり苦労したが、近所にバイオリンを教えるところがあり習いだした。

毎週行って、1ヶ月500円だったと思う。バイオリンは鈴木バイオリンで、当時3000円だった。買ったのは新宿のコタニ楽器店、今は無いのが寂しい。
バイオリンの先生は、戦前、当時の豪華客船日本丸の専属楽団員であったお爺さんで、白い口ひげに手をやりながら、毎回、世界の港の話を聞かせてくれるのが楽しかった。生涯独身の先生でしたが、世界中の港に自分を待っているいい女(ひと)がいたと言っていた。今、生きておられたらお化けである。新年になると毎年家で新年会があり、父の部下達が大勢やってきて、私はどこかのタイミングでバイオリンを弾かされる事になった。皆からうまい上手いとお年玉が貰え、バイオリンを弾くとお金になった。

中学に入ると、ブラスバンド部に入りトランペットをやらせてもらい、バイオリンを習うことは止めてしまった。ブラバンは色々なマーチの演奏が楽しく大好きであった。

パイロットにあこがれて

 高校に入るとパイロットにあこがれ、17歳の誕生日に東雲(しののめ)飛行場(今は高層ビルだらけ)に行き、セスナに乗った。貯めたお小遣い1500円を握りしめ、10分間のフライトを楽しんだ。代々木の我が家の真上まで飛び、下で母親が手を振っていた。一瞬であるが、操縦桿を握らせてもらいパイロットになりたいと話した。

パイロットのお兄さんは雪駄でセスナを操縦し、自分は零戦のパイロットであったという。零戦はパイロットのあこがれであり、優秀な人間しか選ばれなかった、零戦に乗れなかったパイロットは輸送機しか操縦出来なかった。しかし、輸送機のパイロットが日本航空(JAL)でパイロットに採用され、優秀な零戦パイロットは、大型機の経験がないからと採用されずにセスナを雪駄で操縦することになり、世の中間違っていると嘆いていた。

 草原の東雲飛行場に着陸する時は、飛行場を歩いている多くのハゼ釣りに来た人々の頭の上を超低空飛行で脅して追っ払い、Uターンして空いた所に着陸するという、今思えばまだ戦後であった。高校3年になると、近視がひどくなり、パイロットの絶対条件であった視力が足りなく、パイロットは諦めた。

 オケラ(部活)に  はまる

 大学に入ると、授業そっちのけで、オーケストラ部(我々はオケラと呼んでいた)での部活中心の生活になる。一番安い鈴木バイオリンはさすがに気に入らなかった。3つ上の兄は私立大学で、学費が高い。私の学費は1000円/月、兄との差額が大きいことを理由にイタリア製バイオリンを買ってもらった。当時、ラーメンが一杯100円もしない時代(大学の近くでは30円/杯であった)、35万円をポンと出してくれた親に感謝。あれから60年以上が経つが、バイオリンは当時のままである。車や家ならどんどん古びて行くが、たいしたもんである。今、このバイオリンの価値は幾らだろう、気になるところである。

 バイオリンを選んでくれたのは、当時習いに行っていた芸大出の女性で、とても綺麗な人でした。1ヶ月くらい、色々探してくれた結果で有ったのに、何もお礼もしなかった事が今でも恥ずかしく思う。当時はそういうことは全く考えなかった。国鉄の技術者と結婚間近とのことでした。私より5歳ほど上であったと思う。習いに行くと毎回、彼女が私の腰と腕に手を触れて姿勢を直してくれる時、私の顔が赤くなっていたことはバレていなかっただろうか。

内定取り消し、危機一髪!

 大手化学メーカーに就職が決まり、シーズン最後のスキーに仲間と夜行列車で出かけた。旅館に到着すると母親から電話があり、大学からの電話で、必須科目を落としているのでこのままでは卒業出来ないと言われたという。スキー板をそのままかついでトンボ帰り、必須科目の無機化学を落としていたのである。追試は教授室で、教授、私、秘書の金子さん(通称ネコちゃん)の3人だけ。教授は窓の方に向かって座っており、追試中は一度も私の方には振り返えらず、ネコちゃんがそっと教科書を差し出し、かつ問題のページを開いて差し出してくれた。お二人の優しさに感謝し、今でも忘れられない思い出である。

怖い男たち

 

 会社の独身寮生活(静岡県富士宮市)は楽しく、正月休みになっても実家に帰らず、私のように実家に帰らない数人と玄関広間でビリヤードをしていた。すると、白いクラウンが停まり、中から3人の男が出てきて、静かに寮の中に入ってきた。白いクラウン、サングラス、イヤな予感がした。富士宮は当時、後○組というヤクザが夜の街を牛耳っており、白いクラウンは気を付けろと先輩から聞かされていた。中央に背の高い着流しのハンサムな男、両側には腹巻きの上は上着だけの真冬には似合わない男二人、横一列に並んで、いきなり中央の男が仁義を切りだした。左手で着流しの裾を少しめくり、右手を前に、少し腰を落としてヤクザ映画で見るアレである。生で見た!  仁義が終わると、やってきた理由を丁寧に説明した。それによると、この寮生の一人が、暮れの忘年会の宴席で、呼ばれた接待女性の一人を逃がしてしまった。この女性は多額の借金を組にしており、逃がした寮生には、借金分を頂くか、腕の一本でも持ち返りたいと言う。

 名前も○○と分かっている。出せ、という。私は○○というのはゲンちゃんのことだなと分かった。玄関には寮生全員の名札があり、不在は名札を裏がえして赤札にしてある。私は、○○は正月は実家に帰っています。この通り彼はいません、とはっきり伝えた。

白いクラウンを見ると、女が乗っており、我々寮生の顔を確認していたようで、いないいないと手を横に振っているのが見えた。年が明けると、工場正門前にはしばらく、それと分かる男達が立っていた。ゲンちゃんの腕はその後も無くなる事はなかった。

発明第一号は夜の街から(指紋用紙の開発)

 私は腰のポケットに1万円札をねじ込み、夜の街によく一人で飲みに行った。赤提灯専門で、いつしか初老の刑事と親しくなり、刑事の悩みを聞くようになった。捜査で困るのは一般人から指紋をもらうとき、指が黒く汚れるので協力してもらうのに苦労している事が分かった。そこで私は、指紋が簡単に採取できて、かつ指が黒く汚れない方法を考えてみた。万年筆用の青インキは没食子酸と硫酸第一鉄が反応し、一瞬でブルーになる原理を使っている。没食子酸をバインダーと共に紙に塗布して指紋用紙とし、硫酸第一鉄をグリセリンに溶かして印鑑用のパッドに染みこませ、パッドに指を軽く触れ指紋用紙に押すと一瞬で鮮やかな指紋が発色する。見事なほど鮮明で、綺麗、かつ指には全く色は付かない。

初老の刑事に見せると、飛び上がる程驚き、感心し、警察の外郭団体で「警察何とかかんとか研究所」という所に話をしてくれ、そこから商品化の話が来た。

入社したばかりの若造が、夜の街で拾ってきた話にも上司は試作OKをくれ、塗布機を使って1ロール試作した。しかし問題が起こった。この指紋用紙は半年で用紙全体が茶色に変色してしまう事が分かった。没食子酸が空気酸化して変色するのである。採取した指紋も非常に見にくくなり、結局この話は没になってしまった。このとき、足柄研究所の方(お名前は忘れた)に手伝って頂き、人生初の特許を出願し、かつ一発で権利化した。これが私の発明第一号である。

特許報奨金

私の会社生活後半はインスタント写真の開発一色であった。私の名前が入った特許は数十件ほどあると思うが、怪しげな特許もある。大企業は大きな組織の特許部があり、特許出願数を伸ばしていかなければならない宿命にあり、無理してでも出願させてしまう傾向にあった。アイディアがあると言えば、特許部が直ぐに特許事務所の人間を2人連れてきて話を聞かせ、1,2週間で特許が出願されるという早業であった。インスタント開発時代の特許は全てこの方式で、私は特許を書いたことも無ければ、出願手続きも全くノータッチで特許業務に関しては何も覚える事は無かった。だから自分でもよく覚えていない内容の特許も多数ある。

 定年後、5年位い?経ったある日、元の会社から書類が届き、妻が開けて、「なんだか知らないけど、あなた20万円振り込んでくれるそうよ」という、見ると、「特許報酬」と書かれている。金額も200万円で、妻はゼロを1つ見落としていた。私の特許がライバル会社に売れ、その一部を報奨金として支給するという。何の特許か思い出さずいたが、調べたらたいした実験もしないで、頭の中で考えたことを適当に書いたものの1つであった。自分の会社では不要な特許がライバル会社には売れる、こんな事もあるのだ。ライバル会社に売れた時期も記されており、それによると私が在職中であり、私はそのことを知ることは無かった。

この特許報酬は、例の日亜化学の小川信夫社長が青色ダイオード発明で報奨金が少ないと発明者の中村修二氏から訴えられた後で起こった特例と私は理解している。

退職後も10年働く

 定年後、請われて小田原の中小企業に週一お手伝いに出かけていた。新宿から往復ロマンスカーを使わせてもらえ、かつ午前中に出社すれば文句もいわれず、家から楽に通えた。下請け専門の中小企業は親会社から言われるままの値段で製品を納めなければならず、自分で値段を決められる自社商品を持つことが夢であると社長から聞かされた。このあと、数社の中小企業のお手伝いをすることになったが、どこの社長さんも同じ事を言っていた。

ある日、最初の会社の営業に同行していた時、帰り際に訪問先の企業から、うちにも手伝ってもらいたいと私に申し出があり、山口県の本社工場に月一お手伝いに行くことになった。同時に馬喰町の東京事務所には専用の部屋が与えられ、ここはいつでも好きなように使ってくれとのこと。新幹線はグリーン車、本社では夜は美味しい物を食べさせてくれ、あっという間の2年間であった。唯一イヤだったのが、門を入ると、創業者の胸像があり、出退社時、胸像に向かってお辞儀をさせられる事であった。この会社は中小企業の中では、明らかに中企業であり、私の方が教わる事も多々あった。このとき使わせてもらったCADソフトは、この会社を辞めたあとも使わせてくれ、未だに重宝している。この2年間は2社からお給料が入り、妻も喜んでいた。

 大企業と中小企業で何が違うかというと、ひとつは特許専門組織を有しているかどうかではないだろうか。この山口の企業も、特許部門は持っていなかった。定年退職後、4社の中小企業で自社商品開発のお手伝いをするようになってから、アイディア出しから特許を書き、出願するまで全て私がやるしかなかった。特許事務所を使うと当時でも30~40万円必要で、私が勉強してヤルしかなく、当時始まったばかりのインターネット出願を覚え、CADやイラストレーターを使って図面の作成から明細書の作成、パソコンで出願と全て独学で覚え、結果的に大変でも何でも一人で出来るようになり自分の為になった。

自分の為の発明に入る

 この間、毎日仕事をしていると文房具をイヤでも使う。特に私はA4書類を沢山扱うことになり、A4書類のファイリングの不便さは毎日感じ、なぜ誰ももっと使い易い文房具を考えないのだろうとひしひしと思うようになった。
 しかし、この「中小企業のお手伝い仕事」も定年後10年で全て終わり、以降、アイディア、発明は自分のために出すようになった。

自分のための発明の第一弾はキョーワハーツ(株)から販売されている抜き差し自在ファイル、「ヌーケ」である。私の発明である特殊金属綴じ具をどこかで試作してもらおうと、ネットで見つけたキョーワハーツ(株)に交渉したところ、社長から自社で商品化させて貰えないかという提案がり、乗ることにした。ライセンス契約をし、「ヌーケ」(「抜ーける」という私の商品名提案からヒント)が開発され販売された。自社商品が欲しいという社長の強い希望であった。テレビでも紹介され、各種メディアでもとりあげてくれたが、あっけなく下火となり、今では半年に1度、僅かなライセンス料が振り込まれるだけである。でも10年経った今でも売れ続けていることは驚きである。

 「ヌーケ」はテレビ東京のワールドビジネスサテライト(WBS)の「トレンドたまご」(通称トレたま)で放送された。会議室での社長へのインタビューが終わると、発明者である私の紹介も撮影されたのに、放送では私の陰すら写っておらず、テレビの前でずっこけてしまった。

「pupuホルダー」開発秘話

 実はこの「ヌーケ」には発明者の私はまだ満足しないところがあり、もっと良く出来ないかといつも頭のどこかで考えていた。そんなある日、家の近く、駅前の文房具店でファイルを物色していた時、事件に遭遇した。
 店のベテラン女性店員が若い男に、何か資料を見せながら説明をしていた。突然、若い男は急行に乗るからと言って、店を飛び出そうとした。オバチャンは説明していた資料をファイルから引き抜き、男に手渡し、男は資料を持って改札口に走って行った。見事な光景であった。オバチャンに聞くと、よく質問のある商品のカタログをコピーしてあり、このフラットファイルに綴じてある。今回のように急ぐ客には、該当ページを引き抜き(当然綴じ穴は破けてしまう)手渡してあげ、またコピーして入れておくとのこと。そうか、A4書類をファイルに綴じても、強引に引き抜いてしまえば面倒な綴じ具操作不要で、書類を一瞬で抜く事が出来るのだ!私は身体に電気が走った。今までは、綴じ穴が破れてしまう書類の抜き方など常識では考えられなかったが、常識にとらわれなければ、こんな書類の外し方もある事に衝撃を受けた。その後、綴じ具を操作することなく書類を抜き差し出来る「pupuホルダー」に考えをまとめ上げるまでには、尚、半年ほど要したがこの事件が無ければ、「pupuホルダー」も合同会社RokaLaboもあり得なかった。

続く・・・・